三鷹市・井の頭公園の地域の歴史・文化・食 スポット 12選
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玉川上水
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
- 町並み
神田上水と並び江戸の上水として利用された。幕府が庄右衛門・清右衛門の二人に命じ、承応2(1653)年4月に工事を開始。多摩川中流の羽村より引水し四谷大木戸までの43kmは11月に、翌年の6月には虎の門外に至る全長約51kmを完成通水した。短期完成の話はあまりにも有名である。さらに驚かされることは、羽村と大木戸との高低差は92m、およそ100mに21cmの落差しかないことや、水の乏しい台地を進むこと、精密な測量機器や土木機械のない時代でのことなど、工事の様子は想像を超えるものがある。しかも、自然勾配を巧みに利用し、計算されていたため、三鷹市内の例では砂川・品川・牟礼用水など。後に新田開発の大役を担うこととなった。水は江戸町民の飲水や灌漑用水に、また一時期通船も行われた。かつては「人喰い川」と恐れられるほど豊かな水量であったが、戦後の市街地化で水質が悪化し、ついに水の流れない用水路と化した。だが、上水沿いに緑が残っていたことや水への関心が高まる中、昭和61(1986)年には都の清流復活事業によって水が蘇り、福生市から三鷹市まで緑道が整備された。また平成15(2003)年8月には羽村市から渋谷区までの一部30km区間が国史跡に指定された。
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水車・しんぐるま
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
- 郷土景観
武蔵野地域の水車は、江戸期以降新田開発に伴って数多く設置され、明治末期から大正期にかけて産業技術近代化の中で最盛期を迎えました。その後昭和に入ると急激に減少していきましたが、その中で、峯岸家は文化14(1817)年以来、5代にわたり水車経営に携わってきました。 「新車(しんぐるま)」と呼ばれる峯岸家の水車は、文化5(1808)年頃創設され、その後度重なる改造を加え、現存する装置は、搗き臼(つきうす)14個、杵(きね)14本、挽き臼2台、やっこ篩(ふるい)2台、せり上げ2台を備えた多機能性を持つ両袖型の大型水車で、規模・形式ともに武蔵野地域を代表する営業用水車です。 野川の河川改修工事により昭和43(1968)年頃に水車の稼働は停止しましたが、ここには、水車とともに、母屋・カッテ・土蔵・物置などの建物や水車用用水路跡、「さぶた」なども現存しており、武蔵野地域の水車経営農家の旧態を留める貴重な民俗資料です。 ここは、現在、市教育委員会によって管理・公開されています。
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大沢の里古民家
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
- 郷土景観
緑と水に囲まれた大沢の里公園は、かつて農村であった三鷹の原風景を今もなお留めています。ここに残る大沢の里古民家は、明治35(1902)年に建てられた四つ間どりの典型的な農家で、平成30年に復元・整備工事を完了し、昔ながらの民具の展示や、体験学習事業を行う施設として一般公開しています。
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みたか井心亭
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
- 歴史的建造物
昭和58年8月、井上良則氏ご夫妻より土地の寄贈を受け、三鷹市が和風文化施設として建設した。市民からの公募により「井心亭」と名付けられた。庭内に、かつて近くに住んでいた太宰治ゆかりの百日紅が移植されている。
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近藤勇の墓
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
- 観光名所
龍源寺の門前には、六地蔵・庚申塔などと並んで近藤勇の胸像がある。そして、本堂裏の墓地には勇の墓がある(都指定旧跡)。勇は天保5(1834)年、龍源寺からほど近い宮川家に生まれた。16歳で天然理心流の剣士・近藤周助(周斉ともいう)の養子となる。文久3(1863)年土方歳三らと京都に上り、慶応3(1867)年大政奉還までの4年間が、よく知られている新選(撰)組の活躍した時期である。京都・鳥羽伏見の戦いで銃撃を受けて江戸へ帰る。その後、甲陽鎮撫隊を組織して、山梨県勝沼に官軍を迎え撃つが、大敗して千葉県流山で投降する。慶応4(1868)年4月25日、板橋刑場で処刑された。35歳であった。遺骸は遺族や門弟によって密かに運ばれ、龍源寺の墓地に葬られたといわれている。法名は貫天院殿純義誠忠大居士。現在の墓域は昭和31(1956)年に改修されたものである。
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太宰治の墓
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
- 観光名所
太宰治は、明治42(1909)年、青森県北津軽郡金木村(現・金木町)に、県内屈指の大地主の子として生まれる。東京帝国大学仏文科在学中、井伏鱒二に出会い、師事する。昭和14(1939)年1月井伏夫婦の媒酌で結婚。同年9月に甲府から三鷹の下連雀に転居する。以後、終戦前後の一時期を除き、亡くなるまで三鷹で過ごす。三鷹時代に「走れメロス」「人間失格」「斜陽」など多くの名作が書かれた。昭和23(1948)年6月13日の深更、玉川上水に入水。19日に遺体が発見された。昭和24(1949)年6月の一周忌に太宰の墓が、森鷗外の墓の斜め前に建てられた。昭和19(1944)年に発表された「花吹雪」に「この寺の裏には、森鷗外の墓がある。(中略)ここの墓地は清廉で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」という一文があり、その意が汲まれたもの。墓碑には、太宰自筆の文字が拡大して刻まれてる。なお、平成10年、隣に美知子夫人が葬られた津島家の墓が建立された。死の直前に発表された「桜桃」に因み、毎年6月19日に太宰を偲ぶ桜桃忌が催される。
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森鴎外(森林太郎)の墓
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
- 観光名所
森鷗外は、文久2(1862)年、島根県鹿足郡津和野町(現・津和野市)の生まれ。本名を林太郎という。森家は代々津和野藩主亀井家の典医。東大医学部を卒業後、軍医としてヨーロッパに留学し、陸軍医務局長や陸軍軍医総監の地位に進む。その一方、文学にはげみ、明治文壇の重鎮として大きな業績を残していく。主な作品には、「舞姫」「うたかたの記」「雁」や歴史小説「阿部一族」「山椒大夫」などのほか「即興詩人」等の翻訳や評論活動でも知られている。大正11年(1922)、61歳で病没。墨田区向島の弘福寺に埋葬されたが、関東大震災で寺が全焼し、また隅田公園の拡幅工事範囲に墓地が入ったため、昭和2(1927)年に同じ宗派であった禅林寺に森家の墓地が移された。墓碑には、遺言によって一切の栄誉・称号を排して、「森林太郎墓」 とのみ刻されている(墓碑は、中村不折の書)。このことは、境内にある遺言碑に記されている。 毎年7月9日に鷗外忌が催されている。なお、鷗外の墓に並んで演劇評論家として歌舞伎の革新等にも功績をあげた弟篤次郎(筆名・三木竹二)の墓がある。
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三木露風の墓
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
- 観光名所
詩人・三木露風は、昭和3(1928)年に牟礼の地に移り住んだ。転居当時は桑畑や雑木林が広がる閑静な地であった。ここに建てた家は「遠霞荘」(えんかそう)と名付けられた。この家は老朽化したために建替られているが、庭に残る樹木の一部は今も当時の面影を残している。晩年、三鷹の地でひそかに詩を書きつづけた露風は、三鷹市制5周年をたたえ、昭和31(1956)年元旦に「新年の詩」を贈り、また、昭和39(1964)年には高山小学校校歌を作詞している。作曲は露風自らの考えで近衛秀麿に依頼し、同氏の指揮により披露された。墓所は、牟礼にある大盛寺墓地内にある。また、平成21(2009)年、三鷹台団地に「あかとんぼ児童遊園」が作られた。入り口には赤とんぼの歌碑が置かれている。
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柴田勝重の墓
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
- 観光名所
織田信長の死後、柴田勝家が豊臣秀吉に滅ぼされた後、孫の勝重は成人すると徳川家康に仕えた。そして、上仙川・中仙川の地を与えられた。今の新川団地の場所に勝重の陣屋があったと、『新編武蔵風土記稿』などに記される。この地は島屋敷遺跡と呼ばれ、団地の建替工事に伴い発掘調査が行われた。80年ほどで柴田家の仙川の知行は終わり、以後は幕府の直轄地となった。勝重は、寛永9(1632)年、52歳で病死。春清寺墓地には宝篋印塔型の雄大な墓がある。法名は「揚源院殿雄山浄英居士」である。また、十世勝房が寛政8(1796)年に建立した柴田家の由緒を記した碑もある。なお、新川の勝淵神社境内には勝重が勝家の兜を埋納したという塚がある。
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三鷹事件遭難者慰霊碑
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
- 観光名所
禅林寺墓地の奥の方にある、高さ210cmの平板形の碑。昭和24(1949)年7月、三鷹駅構内で起こった無人電車暴走事件の遭難者6人の慰霊碑である。昭和30(1955)年9月25日に有志、篤志家によって建立されたものである。
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八幡大神社「すだじぃ」
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
- 観光名所
八幡大神社社殿の左側に御神木がある。目通り幹周り3.62m 、樹高17m で三鷹市内の社寺にあるシイでは最大のものであり、市の文化財(天然記念物)に指定されている。このシイ(ぶな科)はスダジイという名をもつ。暖地の山野に自生する常緑高木である。したがって人手の加えられなかった昔は、スダジイやシラカシを主体とした照葉樹林に覆われていたものと思われるが、この木は独立樹のため栽植されたものかもしれない。樹勢も盛んな大木で禅林寺の「いちょう」とともに、三鷹市には数少ない天然記念物として大変貴重である。さらに、この境内にはシラカシ、ケヤキの大木、サクラの老木の並木、社殿裏手にはクヌギ林などが保護されており、三鷹市の昔の面影を考える上でも貴重な森である。
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御鷹場の碑
東京都 新宿・中野・杉並・吉祥寺
- 観光名所
鷹をつかって野鳥や兎などの小動物を捕えるのが鷹狩であり、武将などが行ってきた狩猟である。徳川家康をはじめ代々の将軍は、江戸付近の各地で鷹狩をしており、井の頭周辺にもたびたび来ている。幕府は鷹場村々を定め、江戸城を中心に五里(20km)以内の村々を、すべて幕府の鷹場とし、外側の村々を尾張・紀伊・水戸の徳川家などの鷹場とした。三鷹の地はその境界であった。すなわち、上連雀・野崎・大沢から東は幕府の鷹場であり、そこより西の井口・野崎・深大寺・大沢の各新田及び多摩地区から埼玉県南部にまたがる広大な地域が尾張徳川家の鷹場であった。村々には境界を示す石碑が、明和7(1770)年ごろに建てられた。全83本のうち三鷹市内には、7本建てられたという記録がある。そのうち、5本が現存する。市役所庁舎裏の雑木林の中に1本、野崎地区の吉野泰順氏邸内に1本。長久寺境内に1本、そして井口の大鷲神社の祠に1本(2つの部分)である。いずれの石碑も高さ1mほどの角柱型で、方位等が記されているが、書体は異なる。このほか大沢二丁目の地内で発見された1本がある。上部が欠損し、領域を記した方位文字がなく、惜しまれる。
三鷹市・井の頭公園の地域の歴史・文化・食探し
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