沖永良部島・知名町(大島郡)の地域の歴史・文化・食 スポット 12選
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ジッキョヌホー
鹿児島県 鹿児島離島
- 町並み
沖永良部島の南西端に位置する瀬利覚集落の泉である。ジッキョヌホーとは瀬利覚の川を意味する(ジッキョ=瀬利覚、ヌ=の、ホー=川)。付近一帯は苔むす切り石垣によって整然と区画され、石畳の歩道がある。民家は、主屋、ナカヤ、トーグラなど島の伝統的な分棟式居住様式が色濃く残る。周囲は珊瑚礁の石垣に囲まれ、榕樹や福木を植えて台風に備えている。環境省が選定する平成の名水百選に選ばれている。
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住吉高倉
鹿児島県 鹿児島離島
- 町並み
高倉とは、水害やネズミ等の被害から穀物を守るための建物で、備蓄倉庫の役割をしている。稲作の盛んだった昭和40年代まで各集落に多く見られた。奄美諸島から沖縄は四本柱、六本柱の高倉が多く、九本柱の高倉はたいへん珍しいため、町の文化財に指定されている。 住吉の竹林家から大山の自然休養村野営場へ移築されていたが、住吉暗川の整備にあわせ、平成21年に住吉暗川脇に再度移築された。
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屋者琉球式墳墓
鹿児島県 鹿児島離島
- 歴史的建造物
世之主の四天王の一人、屋者真三郎(マサバル)の墓だと言い伝えられている。石灰岩をくり抜いて造ったトゥール墓であるが、屋根は日本式切妻型になっており石畳式に葺かれている。これは、現在沖縄に残っている亀甲形の墓よりも古い形式である。
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屋子母セージマ古墳跡
鹿児島県 鹿児島離島
- 歴史的建造物
自然石灰岩をくり抜いて造られた琉球式墳墓であるが、西隣には仏教の影響を受けた本土型の墓地があり、沖永良部の風習がトゥール墓から日本式の墓に変わっていく途中を知る資料として学問的に重要な場所である。
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アーニマガヤトゥール墓
鹿児島県 鹿児島離島
- 歴史的建造物
アーニ(大字)マガヤ(小字名)というところにあり、南方を向いた斜面に石灰岩をくり抜いて造られ、玄室内部には三方に棚段が造られ全面部分は前に突き出ており、沖縄の亀甲型墓の入り口に似た造りが特徴的である。
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新城花窪ニャート墓
鹿児島県 鹿児島離島
- 歴史的建造物
この墓は1840年に沖永良部の代官として赴任し、1824年に座横目として再来島した鹿児島の城下士、遠矢金兵衛が妻子のために造ったものだと言われている。丘陵斜面を利用した横穴式屋根型で前庭があり、石壁で囲まれた入り口は鳥居型の石門がある。
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上平川大蛇踊り
鹿児島県 鹿児島離島
- 郷土芸能
上平川大蛇踊りは、日本各地に伝えられている蛇踊りとは、その蛇の操作のしかたが変わっていて、十数メートルの3本の竿に大蛇を吊り下げて操作します。 この踊りは、上平川の幸山政孝が、薩摩藩への貢ぎ物の御用を無事すませて帰島する途中に、嵐にあい明国に漂着。そこで暮らす内にこの踊りを覚え、数年後、沖永良部へ帰る船便の都合で琉球に立ち寄り、琉球の歌と踊りをこの踊りに取り入れ、大蛇踊りを完成させて上平川へ伝えたと言い伝えられています。 踊りの内容は、次のような物語になっています。 「ある寺の和尚さんが旅に出る事になり、小僧たちに『留守の間、寺に女性を泊めてはいけない』と注意して旅に出た。月日が過ぎたある夜、美しい娘の一夜の宿の頼みに負けてとめることになった。小僧たちが娘の唄や踊りを楽しんで眠ったところ、その娘の正体は蛇の化身であり、大蛇となって小僧たちを襲ってきた。なす術を知らない小僧たちは恐れおののくばかりであったが、その時和尚さんが帰ってきて、全員で一生懸命お経を唱え大蛇を退治した」 以前は、この踊りをする度に大蛇踊りに使う道具のすべてを集落総出で作り、踊りが終われば焼却していましたが、現在は大事に使用し出来るだけ保存するようにしています。 上平川の大蛇踊りは、大変珍しく、また、文化的に価値の高い文化財だということで、鹿児島県無形民俗文化財として指定され保護されています。
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瀬利覚獅子舞
鹿児島県 鹿児島離島
- 郷土芸能
瀬利覚集落の獅子舞は、沖縄本島をはじめ日本の各地で厄払いの行事や豊年祭の出し物として踊られています。 瀬利覚の獅子舞が、何時の頃どのようにして伝わってきたのかは、記録が無いのではっきりとしませんが、古い時代に中国大陸から沖縄に伝わり、沖縄からその信仰と共に沖永良部に伝わったものだと思われます。それは、獅子のつくり方や踊りかた、使う道具等、沖縄のものと大変よく似ていることで知る事ができます。 獅子舞の演出 1.最初に二人の舞子が登場し、アヤカビルの舞を踊ります。 2.アヤカビルの舞が終了すると、太鼓と誘導者に誘われて獅子が姿をあらわします。 3.獅子の踊りが行われ、途中の休み々に合わせて獅子が踊ります。 4.獅子が退場すると、アゲチクテンと余多打ち畑の曲を全員で踊ります。
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久志検チンカラ踊り
鹿児島県 鹿児島離島
- 郷土芸能
今からおよそ二百年前、久志検の川畑中納という人が、当時の上役人と三名で薩摩に貢物(税金)を納めに行きましたが、その御用を済ませて帰るまでの期間地方をまわって見物している内、ある集落で楽しそうな珍しい踊りを発見しました。氏は、この踊りを教えてもらい、しっかり身につけてから島に帰り集落の人々にも教え伝えました。これが、久志検集落のチンカラ踊りの始めだと言い伝えられています。 同時に、氏は踊りの用具一式、タスキ・ハチマキ・ノボリ・リボン等たくさんの物を持ち帰り伝えました。チンカラ踊りの原名は、現在ははっきりしませんが、踊りに使う鳴り物の音から、チンカラ踊りという俗称で呼ばれるようになり、現在は、久志検チンカラ踊りとして踊っています。
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正名ヤッコ踊り
鹿児島県 鹿児島離島
- 郷土芸能
沖永良部島において、ヤッコ踊りは昭和初期の頃までサイサイ節踊りのように、各集落で唄い踊られていた一般的な踊りだったようですが、現在は、知名町の正名集落や和泊町の国頭等、数集落に伝承されているだけになっています。 正名集落のヤッコ踊りは、畦し越い(あぶしぐい)・天ぬ群星(てぃんぬぶりぶし)・久高マンジュウ主の三曲構成になっています。踊り手の数に定数は無く、舞台の広さやその場の状態によって踊り手の数がかわります。現在、集落や町などの公的行事や各家庭の祝いの座などで、老若男子の集団舞踊として勇ましく軽快に踊られています。
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西目イシシハカマ踊り
鹿児島県 鹿児島離島
- 郷土芸能
この踊りは、歌詞からみると、熊本や鹿児島で江戸時代に大流行した地突歌や祝儀歌と同じ内容になっています。 江戸時代の終わりの頃、上城の沖野松盛氏が代官付人として鹿児島へ行った時に、この歌を習い覚えて帰り、西目の踊りの先生方や三味線の名人達と協力して創ったのが、この踊りの始まりだと言い伝えられています。 この踊りは、初め上城の高野家(イ・フーニ)を中心に伝承され教え広められていましたが、現在は、西目地区の無形文化財として、上城・下城・新城の全集落で唄い踊られています。
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フローラルパーク
鹿児島県 鹿児島離島
- 観光名所
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