吉見町(比企郡)のパワースポット スポット 4選
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吉見観音(安楽寺)
埼玉県 飯能
- お寺・寺院・仏閣
岩殿山安楽寺は坂東11番の札所で古くから吉見観音の名で親しまれてきた。本尊は聖観世音菩薩で、吉見観音縁起によると、今から約1200年前に行基菩薩がこの地に観世音菩薩の像を彫って岩窟に納めたことが始まりとしている。平安時代の末期には、源頼朝の弟範頼がその幼少期に身を隠していたと伝えられ、安楽寺の東約500mには「伝範頼館跡」と呼ばれる息障院がある。この息障院と安楽寺は、かつては一つの大寺院を形成していたことが知られている。天文6年(1537年)後北条氏が松山城を攻めた際に、その戦乱によって全ての伽藍が消失し、江戸時代に本堂・三重塔・仁王門が現在の位置に再建されたと伝えられている。毎年6月18日は「厄除け朝観音御開帳」が行われ、この日は古くから「厄除け団子」が売られている。現在でも、6月18日は安楽寺の長い参道に出店が立ち並び、深夜2時ごろから早朝にかけて大変な賑わいとなる。
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岩室観音
埼玉県 飯能
- お寺・寺院・仏閣
弘法大師が岩窟を選んで高さ一尺一寸(36.4cm)の観音像を彫刻してこの岩窟に納め、その名前を岩室山と号したと伝えられる。武蔵松山城跡跡主が代々信仰し護持していたと伝えられており、天正18年(1590年)豊臣秀吉が関東に出陣した際に武蔵松山城跡跡の落城に伴い建物の全てが焼失したといわれている。現在のお堂は江戸時代の寛文年間(1661〜1673年)に龍性院第三世堯音が近郷の信者の助力を得て再建したものと伝えられている。お堂の造りは懸造り様式で、江戸時代のものとしてはめずらしいものである。岩室観音は「比企西国三十三所観音札所」の第三番であるが、札所めぐりとしては「西国三十三所」「坂東三十三所」「秩父三十四所」が有名で、「比企西国三十三所」は、それほど知られてはいない。比企西国三十三所は、遠隔地を巡礼できない人々のために享保8年(1723年)に開設されたと言われており、江戸時代にはこうした地域ごとに完結する札所めぐりが数多く創設されたようである。また、ここには88体の石仏が収まっているが、これは四国八十八箇所の霊地に建てられた本尊を模したものである。この弘法大師が修行した四国八十八箇所を巡拝することを「遍路」と呼び、観音霊場を巡る「札所めぐり」とは区別される。.
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息障院(伝範頼館跡)
埼玉県 飯能
- お寺・寺院・仏閣
吉見町大字御所地内の息障院がある一帯が、源範頼の居館跡と伝えられている。源範頼は頼朝の弟で平治の乱後、岩殿山に逃げ比企氏の庇護によって成長した。頼朝が鎌倉で勢力を得た後も吉見に住んでいたと思われ、館を中心とするこの地を御所と呼ぶようになったと言われている。範頼は遠江国蒲御厨かばのみくりや(浜松市)で生まれたことから 蒲冠者(かばのかじゃ) とも言われているが、頼朝・義経の生涯が良く知られていることに対して、不明なことや謎とされていることが多い。源平の合戦では義経と共に平氏追討軍を指揮していたが、頼朝が征夷大将軍になると謀反の疑いをかけられ、建久四年(1193年)8月に伊豆に流された。範頼のその後については不明であり「修善寺で自刃」「現横浜市の太寧寺(だいねいじ)で自刃」「伊予国(愛媛県)の河野氏を頼り、そこで没した」「北本市石戸宿で没した」などの諸説がある。範頼没後はその子範円(のりかど)一説には範国(のりくに)、 為頼(ためより)、義春(よしはる) 、義世(よしよ)に至る五代がこの館跡に居住し、範円以降は吉見氏を称した。永仁四年(1296年)、範円の孫義春が謀反の罪で殺害され、次いで義春の子義世も謀反の罪で捕らえられ殺されるなど、北条氏の弾圧を受けた。現在の息障院がこの地に移ったのは、室町時代の明徳年間と伝えられるが、今なおこの寺の周囲には、範頼の館建立時に作られた堀の一部等が残っている。
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岩室観音堂
埼玉県 飯能
- お寺・寺院・仏閣
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