飯能の文化史跡・遺跡 スポット 20選
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杉山城跡
埼玉県 飯能
- 史跡
戦国時代の山城で、約14万平方メートルという狭い範囲の中で、高低差を利用しながらおよそ10の郭を配置した縄張りです。本郭を中心に3方向へ郭を広げていきますが、塁線には折歪(おりひずみ)とよばれる敵方に対して見通しを悪くするための屈曲を多用し、虎口(郭の出入口)にはほぼ例外なく進入方向の側面から矢を射掛ける横矢が仕掛けられる等の防御施設が各所に見られます。 高度な築城技術が高く評価され、「築城の教科書」、「戦国期城郭の最高傑作のひとつ」と評されており、平成29年4月6日に「続日本百名城」に選定されました。
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吉見百穴
埼玉県 飯能
- 史跡
古墳時代後期〜終末期に造られた横穴墓群で、大正12年3月7日に国の史跡に指定されています。現在は219基の穴が確認されています。吉見町を代表する史跡であり、各横穴は、玄室・羨道の2部分からなり玄室は広さが4〜6平方m内外、8つの形式がとられ棺座をもつものが多い。その一部にヒカリゴケが自生している。 ◎ヒカリゴケ・・・穴の一部に自生(天然記念物) ◎地下軍需工場跡地・・・埼玉県クールスポット100選にも選ばれ、夏でもヒンヤリ15℃。多くのドラマ、ミュージックビデオなどの撮影にも使われ、知らずのうちに目にしていることもあるかもしれません。
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青山城跡
埼玉県 飯能
- 城郭
別名「割谷城」とも呼ばれる中世の山城跡です。戦国期には松山城の支城として、腰越城とともに上田氏の要害として機能していたものと思われます。
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割岩橋(ライトアップ)
埼玉県 飯能
- 史跡
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粥仁田峠
埼玉県 飯能
- 旧街道
秩父往還、秩父から比企鎌倉街道を結ぶ主要道路として、巡礼や物資・文化の往来が活発であった。明治17年秩父困民党一斉蜂起による秩父の近代の夜明けを告げた峠。
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赤沼古代瓦窯跡
埼玉県 飯能
- 史跡
武蔵国分寺建立に献納した瓦を焼いた跡。煙出し口とタキ口が残存。
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松山城跡
埼玉県 飯能
- 史跡
本格的な築城は応永6年(1399)と見られる。築城者は大河原安戸城主の上田友直。「松山城風流歌合戦」ののち,武蔵における後北条氏の拠点となり,永禄年間に上杉謙信に攻略され,これを氏康が奪還,さらに小田原合戦で落城,慶長6年(1601)に廃城となった。中世以来の古城にしては城址はよく保存されている。現在丘の頂上に城跡の碑が立ち,土塁・空堀などが残る。平成20年3月に比企城館跡群の一つとして国指定史跡となった。
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黒岩横穴墓群
埼玉県 飯能
- 史跡
古墳時代後期〜終末期に造られたと考えられていますが詳細は不明です。現在では、30数基の横穴の存在が確認されていますが、この一帯の斜面には多数の横穴墓が埋蔵されており、その総数は吉見百穴を超える500基以上と推定されています。 【俗称“十六穴”。吉見百穴調査の端緒となった横穴墓】
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東山道
埼玉県 飯能
- 旧街道
平成13年度に実施した西吉見条里遺跡の発掘調査で、道幅9〜12mの大規模な古代の道路跡が発見された。発見された古代の道路跡は、その規模とルート方向から「東山道武蔵路(とうさんどうむさしみち)」の可能性が指摘されている。現在までに1.8kmにわたる部分で、ほぼ直線状に延びていることが確認されている。この道路跡は、南に向かうと武蔵国の中心であった東京都の府中市に到り、北に向かうと群馬県・栃木県・福島県・宮城県を通過し山形県・秋田県に到達する。道路とは本来、人々が自由に行き交うものだが、東山道は特定の任務をもった役人や、地方での反乱を鎮圧するための軍隊が通行するための道路である。往来の便をはかるために中継基地として約16km(この当時の単位で30里)ごとに「駅屋うまや」を置き、馬を10疋ひき常備していたとされている。西吉見条里遺跡で発見された古代道路は、低湿地から自然堤防である微高地上にかけて検出した。このような事例は全国的に見ても調査例が少なく、低湿地という悪条件の地盤を克服するために、さまざまな土木工法が確認されている。
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国指定史跡「比企城館跡群 松山城跡」
埼玉県 飯能
- 城郭
松山城跡は、比企丘陵の先端に築かれた北武蔵地方屈指の平山城。平成20年に、国指定であった菅谷館跡(嵐山町)に、杉山城跡(嵐山町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに加わり、比企城館跡群として国指定史跡となる。城の周囲は市野川が形成した低湿地帯が広がり天然の要害を形成している。現状の城の縄張りは、後北条氏による大改修によって形成されたものと思われ、本曲輪を初め多くの平場や空掘などが大変良好な状態で残っている。「鎌倉大草紙」には、応永23年の鎌倉六本松の合戦において「松山城主上田上野介討死」とあることから、応永年間(1394〜1428)には松山城は存在していたと推定される。しかしながら、この頃の文献資料は極めて乏しく詳細なことは不明である。歴史的には、室町幕府の要職にあった公方足利氏、扇谷・山内両上杉氏が衰退し、戦国大名の代表とされる後北条氏が興隆する時期からその名を中世史に登場させたと言える。 天文年間(1532〜1555)以降の文献資料は豊富で、その中には、扇谷・山内両上杉氏、後北条氏、甲斐の武田氏、越後上杉氏の名も見られる。特に、天文6年(1537年)に小田原の北条氏綱が江戸城・川越城を落とし松山城を攻めたことは有名である。その後も後北条・越後上杉などによる度重なる合戦によって支配者が頻繁に変わったが、後北条勢力下の上田氏の支配下にあることが多かった。松山城をめぐる攻防は大変激しく、ここが北武蔵地域の要所であったことが伺える。天正18年(1590)、豊臣秀吉による関東攻略の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢が攻め落とし、小田原に本拠を構えた後北条氏は滅亡した。その後、徳川家康が関東に入り松平家広を松山城主としたが、弟の松平忠頼のときに浜松に移封され慶長6年(1601)に廃城となった。
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仙覚律師遺跡(万葉の碑)
埼玉県 飯能
- 史跡
仙覚は建仁3年(1203年)常陸国(茨城県)に生まれ、天台宗の僧侶で万葉集研究の先駆けとして知られています。寛元4年(1246)、仙覚は源親行の書写本を底本に万葉集の読み方のわからなくなっていた152首を読めるようにしました。建長5年(1253年)後嵯峨上皇に奉献したところ、上皇は喜んで仙覚の歌1首を続古今和歌集に載せたといいます。文永6年(1269)に本格的な万葉集の註釈本として学問的価値の高い「萬葉集註釈」全10巻を完成させました。 そして、この画期的な大業績を成し遂げた場所が小川町であると言われています。 なお、この石碑は昭和3年4月、仙覚律師保存会によって建てられました。撰文は国文学者で、万葉集研究者の第一人者である佐々木信綱、書は岡山高蔭です。また、この旧跡のある地は、中世の城跡「中城跡」でもあります。周囲に土塁が残され、かすかに当時の様子を偲ばせます。
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穴八幡古墳
埼玉県 飯能
- 史跡
石室は,横穴式石室で中を観察できる。石室の構造,石組み技術等を知るうえで価値の高い古墳。周囲に方形に廻る二重の堀を構え、一辺は28.2m、高さ5.6mを測る大型の方墳です。横穴式石室は全長8.2mで、保存状態も良く小川に産する緑泥石片岩を使用しています。古墳時代末期、7世紀後半頃に造られたと考えられています。
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鎌倉街道上道跡
埼玉県 飯能
- 旧街道
鎌倉街道上道は、鎌倉と武蔵・上野・信濃などを結ぶ中世の兵馬の道といわれています。八和田地内には市野川とほぼ並行するように鎌倉街道上道が走り、今も良好な鎌倉街道の特徴である堀割状道路の遺構が3ヶ所に残されています。
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大谷瓦窯跡
埼玉県 飯能
- 史跡
奈良時代末から平安初期の瓦焼窯の跡。
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四ッ山城跡
埼玉県 飯能
- 城郭
「鎌倉街道上道」を望む要所にそびえる四津山に築かれた中世の山城で、増田四郎重富の居城とも伝えられています。 長享2年(1488年)と明応3年(1494年)の二度にわたり、山内・扇谷上杉氏により山麓の高見原合戦が行われました。
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腰越城跡
埼玉県 飯能
- 城郭
埼玉県指定史跡腰越城跡は、槻川に三方を囲まれた天然の要害に築かれた戦国時代の典型的な山城で、松山城主上田氏の家老山田伊賀守直定の居城として伝えられています。標高216mを測る本郭からは、東に小川盆地や比企丘陵の山々、西に堂平山・笠山や安戸方面を見渡すことができ、すばらしい眺望が開けています。 城郭は、山頂の本郭を中心に二の郭・西の郭・帯郭など大小様々な17の郭と、竪堀・堀切などから構成されており、巧みに組み合わされた小口のつくりなどが特徴的で、戦国時代の典型的な山城です。
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稲荷塚古墳
埼玉県 飯能
- 史跡
町指定史跡。かつて古墳の上に稲荷社があったことから稲荷塚の名称がついた。
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笛吹峠
埼玉県 飯能
- 史跡
町指定史跡。嵐山町と鳩山町の間にある峠で、1352(観応3)年後醍醐天皇に味方していた新田氏と足利尊氏の争いである「武蔵野合戦」において、「笛吹峠の戦い」があった場所。桜の時期には峠の頂上までの間が桜のトンネルになる。
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大蔵館跡
埼玉県 飯能
- 史跡
向徳寺の南西約400m。源頼朝の叔父の源義賢はこの大蔵館で甥の悪源太義平のために襲撃され戦死したが、現在もりっぱな土塁、空濠をめぐらした大蔵館が史跡として残っている。県の史跡に指定されている。
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菅谷館跡
埼玉県 飯能
- 史跡
国指定の遺跡で,平成29年4月6日に「続日本百名城」に選定されました。武蔵嵐山駅の南西約1km、槻川と都幾川の合流点北側の河岸段丘上にあり、鎌倉時代の初期、この地を本拠とした畠山重忠の築城といわれています。地形的には,東西を深い谷によってさえぎられ、北側だけが台地に連なっていて武将の館として恵まれた条件を備えています。面積は約122,000平方m。現存する土塁や空堀などが、戦国時代をしのばせてくれます。 ◎畠山重忠(1164-1205)父が平氏に従っていたため、1180(治承4)石橋山の戦には平氏方についたが、のち源頼朝に従う。奥州征伐に先陣として活躍するなど軍功多く、鎌倉武士の模範とされたが、嫡子重保と平賀朝雅との争いが原因で、北条義時の軍と相模国二俣川で戦い、戦死した。(国指定史跡)
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