大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)の史跡 ランキング
大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)の史跡 スポット 20選
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瓢箪山稲荷神社
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
大阪府東大阪市にある神社。本殿は慶応2年に建てられたもので、日本三大稲荷の一つとされている。神社本殿の背後にある小丘は「瓢箪山古墳」と呼ばれている。辻占が今でも盛んなことで有名で、万葉集に出てくる古代最もポピュラーだった占いの一つである。
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清寧天皇陵古墳
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
古市古墳群の南西部に築かれた前方後円墳です。墳丘長115メートル、後円部直径63メートル、前方部幅128メートルを測り、前方部幅が後円部直径の2倍に達しており、前方後円墳としてはもっとも前方部が発達した形態で、墳形の最終段階を示すものと考えられています。周濠(しゅうごう)は地形に制約されるため、前方部付近には水量調整用の土手が築かれています。また、くびれ部の北側には造出しが存在します。さらに平成15年度の調査で二重目の濠が存在することが判明しました。これらの調査で出土した埴輪などから古墳の築造は6世紀前半頃であったと考えられています。 なお、墳丘主軸の東延長線上には小白髪山古墳が築かれており、 陪塚(ばいづか)であるとすれば、形態が前方後円墳である点で注目されます。
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下赤坂城跡
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
元弘元年(1331)、鎌倉幕府討幕計画が発覚し、後醍醐天皇が笠置山に逃れました。楠木正成はこれに合わせて挙兵、この赤阪城を急いで築城しました。しかし、にわか造りであったため、すぐに落城、正成はいったん退きます。その後、元弘2年(1332)、正成はこの城を再び奪還、再度落城しますが、千早城での籠城戦の間に幕府は滅亡します。この城は、金剛山地から北方向へ延びる尾根上に位置します。残念ながら城としての遺構は残存していませんが、「甲取」(かぶとり)、「矢場武」(やばたけ)などの城を連想させる地名が残っています。なお、現在の村役場の上位付近には「主郭(本丸)跡」の伝承の残る平坦地がありますが、そこからは南河内地域が一望でき、眺望という観点からはまさに城であることを感じさせます。
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千早城跡
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
鎌倉勢との戦いで下・上赤坂城が相次いで落城したのち、元弘3年(1333)、楠木正成が金剛山の険しい山腹(標高666m)のところに築城し、わずかな兵力で100日間龍城、鎌倉勢を釘付けにしたことが『太平記』などで伝えられている山城の跡。その間に、源義家(八幡太郎義家)を祖先とする河内源氏の一門・新田義貞らが鎌倉へ攻め込み、鎌倉幕府は滅亡。以降、千早城は元中9年(1392)、北朝方の畠山基国によって落城するまで、楠木家の根拠地として約60年間、使われていた。現在、千早城のあった跡地(国の史跡)には千早神社があり、正成・正行(まさつら)親子を祀っている。二の丸跡、三の丸跡なども付近にあり、さらにここから登山道を少し登ったところには「千早城跡五輪塔」が。地元では「首塚さん」と呼ばれ、正成や、その三男である正儀(まさのり)の供養塔と考えられているそうだ。
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金山古墳
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
珍しい、ひょうたん形をした古墳。
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鹿谷寺跡
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
奈良時代に二上山山麓に造られた鹿谷寺跡は、凝灰岩の岩盤を掘り込んで作られた大陸風の石窟寺院です。中国大陸には敦煌や龍門石窟など、数多くの石窟寺院が見られますが、奈良時代にまでさかのぼる本格的な石窟寺院は、我が国では二上山山麓以外には知られていません。寺跡の中心部には、十三重の石塔と岩窟に彫りこまれた線刻の三尊仏坐像が遺されており、かつてこの周辺から日本最古の貨幣といわれる、和同開珎が出土しています。
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山畑古墳群
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
この古墳群は瓢箪山(ひょうたんやま)駅の東側の山麓(さんろく)部にある、東大阪市立郷土博物館周辺に分布している。今でも20基ほどが残されているそうだが、これまでに行われた開墾(かいこん)や宅地開発によって取り除かれた古墳も含めると、実際には100基以上の集まる古墳群だったとされている。古墳群は6世紀の後半から7世紀はじめにかけて造られ、ほとんどは横穴式石室を持った円墳だが、中には瓢箪形(ひょうたんがた)をした双円墳や方墳も見ることができる。
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二本松古墳
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
6世紀後半から7世紀の初めにあたる古墳時代後期には、有力豪族達により群集して造られた。この古墳もそのうちの一つで、横穴式石室を内部主体としており、花崗岩や閃緑岩などの巨大な石を積み上げて造られたものである。現在、古墳は保存され、大きな石室を見学することができる。
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仲哀天皇陵(岡ミサンザイ古墳)
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
仲哀天皇陵は、墳丘長242メートル、周濠幅約50メートルの大型前方後円墳。古市古墳群では4番目の大きさである。別名「岡ミサンザイ古墳」とも呼ばれ、羽曳野丘陵の北東部外縁に位置している。横穴式石室を採用している可能性があること、また出土した円筒埴輪などから、5世紀後半の築造と考えられている。冬にはマガモ、オナガガモ、トモエガマ、ハシビロ、カイツブリなどの渡り鳥が多く飛来し、バードウォッチングに人気がある。市民の憩いの場としても親しまれている古墳だ。
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国府遺跡
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
国府遺跡は、旧石器時代から中世に至る集落遺跡です。大正6年に日本で初めての本格的な発掘調査が実施されて以来、縄文時代から弥生時代の人骨が計90体検出されています。また、飛鳥時代には衣縫廃寺(いぬいはいじ)が創建され、塔心礎(とうしんそ)は現在でも史跡内に残っており、国の史跡に指定されています。その名からも連想されるように奈良・平安時代には河内国府が設置され、河内国の政治的中心地であったと考えられています。
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峯ヶ塚古墳
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
古市古墳群の中では内部施設が発掘調査されている数少ない前方後円墳です。古墳の復元整備に伴う12回の発掘調査で多くの成果を上げました。墳丘は96メートルで二段に築かれており、外部施設としては南側以外は二重濠を有し、墓域は東西168メートル、南北148メートルを測ります。 平成3年(1991)の発掘調査で、後円部墳頂付近で新たに確認された石室からは、盗掘を受けていたものの多くの副葬品が発見されました。この中には、銀や鹿角製(ろっかくせい)などの装飾品を付けた大刀をはじめ、武器や武具、馬具など軍事的な副葬品や、装飾品となる金銅製(こんどうせい)の冠帽(かんぼう)や帯金具(おびかなぐ)、魚佩(ぎょはい)、銀製の垂飾りや花形飾り、ガラス玉や石製玉類などがあり、総数は3,500 点以上に及びます。 この古墳は、副葬品や出土した埴輪の特徴から5世紀末頃に築かれたと考えられます。
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高宮廃寺跡
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
この周辺には、高宮遺跡とよばれる縄文時代以降の村の遺跡が出土しており、なかでも飛鳥時代から白鳳時代にかけての住居跡は、古代氏族の屋敷と庶民の住居の様子を示している。白鳳時代に創建された高宮廃寺は、彼らの氏寺として建立されたものらしい。この寺は平安時代に一時廃絶、鎌倉時代に再建され室町時代に至るまで続いたもので、寺跡は国の史跡に指定されている。
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墓山古墳
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
羽曳野市の中で第5位の規模をもつ大型の前方後円墳で、5世紀はじめ(約1,600年前)に造られたと推定されます。全長225メートル、後円部の直径135メートル・高さ21メートル、前方部の幅153メートル・高さ19メートルで、盛土は三段に積まれています。後円部と前方部のつなぎ目には造り出しがあり、周囲には深い濠(ほり)が掘られ、その外側には幅約25メートルの堤がめぐっています。墳丘の斜面は石でおおわれ、平坦部には埴輪が列になって並べられています。中心部には竪穴式石槨が造られ、長持形石棺が納められているようです。 すぐ北にある野中古墳は墓山(はかやま)古墳に付属する陪塚(ばいづか)と考えられていますが、この古墳には鉄で作った多量の武器や農工具が納められていて、墓山古墳の主が貴重な鉄を多量に所有していた実力者であったことが推定できます。
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河内大塚山古墳
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
二市に拡がる雄大な古墳。
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安閑陵古墳
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
古墳は高屋丘陵の北端に築かれた前方後円墳で、古市古墳群内の南側のグループのひとつです。墳丘長122メートル、後円部直径78メートル・高さ13メートル、前方部幅100メートル・高さ12.5メートルを測り、前方部が開き、わずかに後円部の方が高くなります。周濠(しゅうごう)は幅約15メートルで全周しますが、外堤(がいてい)については地形の変形が著しく、その規模は不明瞭(ふめいりょう)です。さらに墳丘部分は、中世の高屋城の築造や陵墓改修に伴って、古墳本来の形態が大きく改変されています。特に、前方部の北隅が直角になりますが、これが本来の形態かどうかは確認されていません。 出土する埴輪や須恵器(すえき)の特徴、正倉院(しょうそういん)と同種のペルシャ製ガラス椀の年代観から古墳は6世紀前半頃に築かれたと考えられています。
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白鳥陵古墳(日本武尊白鳥陵)
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
羽曳野市のほぼ中央、羽曳野丘陵から東に延びる中位段丘上に築かれた古墳時代中期の大型前方後円墳です。現在宮内庁によって白鳥陵古墳に治定(じじょう)されています。 墳丘規模は墳丘長200メートル、後円部直径106メートル、前方部幅165メートルを測ります。前方部の幅が後円部の直径を上回ること、高さは前方部が3メートル高いなどの特徴があります。くびれ部北側には造出しをもち、周りには幅30メートルから50メートルの周濠が巡っています。現在周濠に水を湛えており静寂な雰囲気を醸(かも)しだしています。 日本書紀などによると「日本武尊は遠征の帰り道、伊勢の能褒野(のぼの)で亡くなり白鳥となって大和琴弾原(ことひきはら)を経由して古市に飛来し、また埴生野の空を向かって羽を曳くように飛び去った」と伝えられ、本市の名前の由来となっている古墳です。
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松岳山古墳
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
松岳山古墳は、国分神社の丘陵上のもっとも高い所にある前方後円墳である。後円部の頂上には、6枚の石を組み合わせて作られた石棺があり、国宝「船氏王後首の墓誌」をはじめ、数種の副葬品が出土している。
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安福寺横穴群
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
木々に囲まれた小さな谷のような安福寺参道の両側には、古墳時代の横穴がある。凝灰岩(ぎょうかいがん)に掘削された横穴群で、40基が確認されている。古代人の住居といわれたこともあったが、実は古墳時代の墓である。騎馬人物像の線刻壁画や陶棺を伴う横穴があり、これらの横穴は、6世紀中ごろから7世紀初めにかけて造られたことが、出土した土器などからわかっている。その時代には石を組んで石室に土を盛った古墳が多く、横穴は大阪府では柏原市にしか見られない珍しいものである。ここは、府の指定文化財となっている。
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田辺廃寺跡
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
田辺廃寺は、田辺史人の氏寺として、白鳳時代末に創建されたと考えられている。発掘調査では、金堂・西塔・東塔・南大門・回廊の遺構が見つかった。また、中門の北側に東西両塔を配した薬師寺式の伽藍配置が確認されているらしい。
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飯盛城跡
大阪府 大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)
- 史跡
標高314メートルの山頂に、飯盛城跡の碑とひっそりと残る石垣の一部がある。1467年(応仁元年)に始まった応仁の乱は世を戦国の時代へと巻き込んでいった。戦略上重要であった飯盛城は、この争乱の中で木沢長政から安見直政へとその城主は移り変るが1560年(永禄3年)ついに畿内勢力の掌握に成功した群雄三好長慶の居城となる。各尾根の要所には郭(くるわ)と呼ばれる陣地が設けられ、山全体が堅固なる要塞であり、その規模は中世山城としては最大級とされている。
大阪東部(寝屋川・守口・門真・東大阪)の史跡探し
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