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三重県の史跡 ランキング
三重県の史跡 スポット 20選
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的矢湾大橋
三重県 志摩
- 史跡
志摩市と鳥羽市を結ぶ県道、通称「パールロード」上にあり、リアス式海岸の的野湾にかかる長さ237.6メートルのアーチ型、赤い色をした鉄橋。赤い橋と的野湾の青い海、海岸線を覆う木々の緑の対比も美しいところ。橋の北側には駐車場を完備した展望台があり、伊雑ノ浦を眺められる。橋の下にはアオサやカキの養殖いかだもあるなど、ここならではの風景が広がる。
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神戸公園(神戸城跡)
三重県 桑名・長島・四日市・湯の山・鈴鹿
- 史跡
三重県鈴鹿市にある公園。神戸城跡を中心として整備され、天守台の石垣と堀は現在も残されている。園内には石の山や複合遊具などがあり、子どもたちの遊び場になっている。彫刻広場もあり、自然や歴史に触れながら好奇心を育む貴重な公園。
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鎌切古墳
三重県 津・久居・美杉・松阪
- 史跡
全長約50mの前方後円墳である。市指定史跡。
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反古塚
三重県 津・久居・美杉・松阪
- 史跡
国学者谷川士清が草稿をうずめるため築いた塚。
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高井古墳
三重県 津・久居・美杉・松阪
- 史跡
横穴式石室をもつ後期古墳。昭和31年に発掘調査されたもの。
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津城跡
三重県 津・久居・美杉・松阪
- 史跡
織田信長の北伊勢攻略後,弟の信包が,それまでの安濃津城を修築して天正8年(1580年)5層の天守を構えた。だが,関ケ原の戦の前哨戦で城主富田信高が東軍に組したため,城は西軍の猛攻にあって陥落。慶長13年(1608年)築城の名手藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石を領して入封するに及んで,面目を一新する。平城で,天守は再建されなかったものの,石垣を高くし,堀を広げるといった改築がおこなわれた。城主も以後は,藤堂氏が襲して明治に至る。現在,城内には日本庭園と西洋庭園が造られ,藩校有造館の門が移築されている。◎織田信包(1543年-1614年)安土桃山・江戸前期の武将で,織田信長の弟。1568年に信長より北伊勢を与えられる。本能寺の変以後は豊臣秀吉に属し,伊勢国安濃津城主となる。◎藤堂高兌(1781年-1824年)津第10代藩主。藩財政の再建と文教の興隆に努め,藩好「有造館」を津に設立。また伊賀上野に「崇広堂」を開設。
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日永の追分
三重県 桑名・長島・四日市・湯の山・鈴鹿
- 史跡
四日市は東海道五十三次の四十三番目の宿場として栄えました。日永の追分は、東海道と伊勢街道の分岐点で、往時の繁栄ぶりを今に伝える史跡です。
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旧豊宮崎文庫
三重県 伊勢・二見
- 史跡
慶安元年(1648)、外宮権禰宜・出口延佳(でぐちのぶよし)らによって創設されました。 内宮の「林崎文庫」とならんで書籍の収集・収蔵、学問所として栄えました。 現在、建物としては三間棟門と練塀のみが残っています。
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旧林崎文庫
三重県 伊勢・二見
- 史跡
元禄3年(1690)、「内宮文庫」が林崎に移転して「林崎文庫」になりました。 書籍の収集・収蔵、祀官子弟の教育、伊勢と文化的先進地との交流の場として明治まで利用されました。 講堂と神庫は当初の状態をよく保っており、貴重な遺構となっています。
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朝熊山経塚群
三重県 伊勢・二見
- 史跡
伊勢湾台風で倒れた木の整理作業中に発見されました。 造営の時期については確認できる範囲で保元元年(1156)から文治2年(1186)までの約30年間になりますが、出土品から見るともう少し前後に広がると考えられます。 神宮の祠官や僧侶が願主になっており、末法思想による経塚造営の風潮が神宮の禰宜層にまで浸透していたことがうかがえます。
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宝塚古墳(宝塚古墳公園)
三重県 津・久居・美杉・松阪
- 史跡
伊勢地方最大の前方後円墳。大小2基あり、そのうち一つは、公園として整備され人々の憩いの場となっています。
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本居宣長旧宅(鈴屋)
三重県 津・久居・美杉・松阪
- 史跡
本居宣長が12歳から亡くなるまで暮らした鈴屋。明治42年に松坂城二の丸跡に移建。宣長当時の姿に復元し、公開しています。この建物の二階の書斎を「鈴屋」と呼びます。 一階の各部屋は上がってご覧頂くことが出来ます。二階「鈴屋」は保存のために上がっていただくことが出来ませんが、石垣の上に見学場所を設置していますのでそこからご覧になって下さい。
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伊勢山上
三重県 津・久居・美杉・松阪
- 史跡
全山は奇岩とうっそうたる古木に包まれた絶景の地で、文武天皇の大宝元年(701)、役行者小角(えんのぎょうじゃおずぬ)の開創による霊場と伝えられています。 ここにある巡礼参拝の表行場・裏行場には幾多の霊場・難所があり、吉野の大峯山以上といわれる両行場はスリルを味わいたい人々には格好のコースとなっています。 毎年4月第4日曜日の「春季戸開け大祭」と毎年10月第4日曜日の「秋季戸閉め大祭」には数十名の先達が山伏姿でほら貝を吹きならし、昔ながらの行事が行われます。
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松坂城跡(松阪公園)
三重県 津・久居・美杉・松阪
- 史跡
松阪駅の西約1km,四五百森と呼ばれる高台にあります。1588(天正16年)年蒲生氏郷が築城したもので、当時は3層の天守閣をもち、堀の総延長は2kmに及ぶという堅固な城でした。氏郷が会津に転封された後は,服部一忠,古田重勝,古田重治が城主となり、その後は紀州藩の代官役所が置かれました。現在は、苔むした石垣が往時を物語り、一帯は松阪公園として整備され,サクラ・フジ・ツツジ・イチョウなどの名所ともなっています。また、城跡には市立歴史民俗資料館をはじめ、本居宣長旧宅(鈴屋),本居宣長記念館などがあります。 ◎蒲生氏郷(1556年-95年)近江日野城主蒲生氏の出身。織田信長に仕え、功により伊勢松ケ島12万石。松坂城を築き,城下町を営む。のち会津転封。(平成23年2月7日国指定史跡)
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大河内城跡
三重県 津・久居・美杉・松阪
- 史跡
北畠満雅が応永22年(1415)に築いた城で、弟の顕雅を城主としました。永禄12年(1569)北畠具教はこの城に篭もって織田信長と戦いました。織田勢は力攻したが失敗、兵糧攻めに転じたため、具教はついに信長の次男信雄を養子とする条件で和睦。信雄が田丸城に入ったため廃城。 ◎北畠具教(1528-76)戦国時代の武将。弓馬・兵法・和歌など文武に秀でた端将といわれています。永禄のはじめごろから織田信長の伊勢侵攻によって、多気・大河内両城を棄てて三瀬の古城に移り、1570年出家。
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阿坂城跡(白米城)
三重県 津・久居・美杉・松阪
- 史跡
北畠満雅が築いた城。敵軍の水断ちに遭った際、白米で馬を洗い水がふんだんにあるように見せかけ、敵をあざむき退却させたという伝説から、白米城の名があると言われています。
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桑名城址(九華公園)
三重県 桑名・長島・四日市・湯の山・鈴鹿
- 史跡
揖斐川河口付近にある。1601(慶長16年)年本多忠勝が10年を要して築城した。のちに代々松平氏の居城となり、5代目藩主定綱の時城郭が完成した。封地がほぼ正方形で東の一辺だけ湾曲していたので、扇城と呼ばれた。明治維新後城郭は破壊され、現在は九華公園と名を変えて、桜・ツツジ・菖蒲の名所になっている。一角に松平定信・定綱を祭る鎮国守国神社があり、楽翁公百年祭記念宝物館には2人の遺品を保存している。◎松平定敬(1846年-1908年)高須藩主松平義建の子として江戸出生。桑名藩主として兄容保と共に佐幕運動に挺身。鳥羽・伏見の戦いに敗れ、津藩知事に永預り。晩年は日光東照宮宮司となり、波乱の生涯を終った。◎本多忠政(1575年-1631年)徳川家康に仕え、1590年の小田原の役に16歳で初陣、父忠勝とともに岩槻城を攻める。関ケ原の戦では徳川秀忠に従い真田氏を攻撃した。
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七里の渡跡
三重県 桑名・長島・四日市・湯の山・鈴鹿
- 史跡
熱田・宮の渡しから海上七里を船に乗り、桑名の渡しに着いたことから「七里の渡」と呼ばれています。当時は、東海道の42番目の宿場町として大賑わいを見せていました。ここにある大鳥居は、これより伊勢路に入ることから「伊勢国一の鳥居」と称され、伊勢神宮の遷宮ごとに建て替えられています。
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住吉浦
三重県 桑名・長島・四日市・湯の山・鈴鹿
- 史跡
揖斐川河口近く,番所が置かれ船着場として賑わった。
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北大手橋
三重県 桑名・長島・四日市・湯の山・鈴鹿
- 史跡
揖斐川に面する川口樋門から南大手橋に至る三之丸掘の石垣約500mが現存する城壁であり、江戸時代に思いをはせることができる。
三重県の史跡探し
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