広島県の史跡 スポット 20選
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爆心地(島病院)
広島県 広島・宮島
- 史跡
広島県広島市にある、1945年8月6日に投下された原子爆弾が爆発した直下の地点。1993年に開業した「島病院」の上空約600mで炸裂したとされる。現在は「島内科医院」と名前を変えて再建されており、目の前には「原爆被災説明板」が建てられている。
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原爆ドーム
広島県 広島・宮島
- 史跡
チェコ人の建築家、ヤン・レツル氏の設計で1915年(大正4年)に開館。かつて市の中心街にあった「広島県産業奨励館」跡。昭和20年8月6日の原爆の実状を伝えるため永久保存されている。1996年(平成8年)にユネスコの世界遺産として登録された。
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頼山陽史跡資料館
広島県 広島・宮島
- 史跡
頼山陽史跡資料館は,広島市都心部の中区袋町5-15に所在します。この場所は,江戸時代には「杉ノ木小路(しょうじ)」に面した武家屋敷地で,頼家の屋敷がありました。平成27年5月1日にリニューアルオープン。
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銀山城跡
広島県 広島・宮島
- 史跡
武田信宗の築城と伝え、毛利元就に攻め落とされるまで武田氏歴城であった。
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地蔵河原一里塚
広島県 広島・宮島
- 史跡
古い石州街道は,今日のように亀山,飯室および鈴張を迂回せず南原峡沿いに進み,可部峠を越えて現在の山県郡北広島町本地に抜けていた。かってはこの街道に沿って一里塚が置かれていたが,今日,ほとんど消滅し現存するものは珍しい。この地蔵河原一里塚は,現在の路面が相当地上げされているため,塚の原型は失われている。
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高松城跡
広島県 広島・宮島
- 史跡
承久の変後、新補地頭として入ってきた熊谷直実の子孫が、荘内の奥地可部町大林の伊勢坪平城に拠った。戦国時代初期に熊谷信直が高松城を築き、山麓には巨岩を積んで石垣とした居館跡がある。熊谷氏は武田氏に属して毛利と戦ったが、敗れて臣従した。以後毛利の陣営で中国制覇に従い、天正19年(1591年)毛利氏の広島城移転に伴って広島に移り、城は廃城となった。
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熊谷氏の遺跡
広島県 広島・宮島
- 史跡
熊谷氏は、武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)から移り住んだ一族で、源平合戦で勇名をはせた熊谷直実の子孫にあたります。直実の孫である直国は、承久の乱(1221)の時に近江国勢多(滋賀県)で討ち死にし、その功によって鎌倉幕府から、その子直時に三入荘の地頭職が与えられ(現在の大林、桐原、上町屋、下町屋一帯にわたる荘園)、後には熊谷氏の本拠は高松山城に移されました。
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新宮古墳
広島県 広島・宮島
- 史跡
翡翠製勾玉付首飾が出土し、古墳の規模,構造などの点から海田湾周辺の同時期の古墳の中でも傑出している。昭和58年3月24日文化財指定。
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官立綿糸紡績工場跡
広島県 広島・宮島
- 史跡
英国から紡績機を輸入して建てられた紡積工場の跡。昭和15年11月10日文化財指定。
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矢野城跡
広島県 広島・宮島
- 史跡
熊谷蓮覚の本拠となったところ。城塁跡などを残す。昭和12年5月28日文化財指定。
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田万里鏡田古墳群
広島県 三原・竹原・東広島・呉
- 史跡
12基の箱式石棺と1基の石台がある。石台は「もがり」台と考えられ全国でもまれな遺構である。
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横大道古墳群
広島県 三原・竹原・東広島・呉
- 史跡
11基の古墳。横穴式石室をもつ。鉄器や須恵器,馬具類などが発見された。
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頼惟清旧宅
広島県 三原・竹原・東広島・呉
- 史跡
頼山陽の祖父の家。裏庭に山陽の詩碑がある。
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木村城址
広島県 三原・竹原・東広島・呉
- 史跡
竹原小早川氏が本拠を築いたところ。本丸跡などが残る。
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三原城跡
広島県 三原・竹原・東広島・呉
- 史跡
山陽新幹線の三原駅が三原城の本丸跡である。城の遺構は駅前に天主台の石垣と内堀を残すのみである。築城者は戦国時代の智将と言われる小早川隆景である。天正年間(1573-91)毛利家の広島城と前後して築いた。城は海に向かって舟入りを開いた城郭兼軍港であり,隆景はここを根拠に瀬戸内海の水軍を指揮したのである。◎小早川隆景(1533-97)安土桃山時代の武将。毛利元就の第三子。小早川家を継いで毛利氏の片腕として活躍す。名島学校を興したことでも有名。天主台跡へは三原駅構内から入るようになっている。
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青陰城址
広島県 福山・尾道
- 史跡
村上水軍の本拠地であった城。本丸跡などの遺構が残り、眺望がよい。 因島のほぼ中央部、風呂山と龍王山にはさまれた標高275.7mの青影山頂にあり、三庄方面を除く島のほぼ全域及び周辺海域が見渡せる眺望のきく場所に位置し、現存する郭は、龍王山との間を急崖で区切った三の丸を西端に、幅15m長さ32m本丸があり、東に46mの通路の先が幅13m縦26mの二の丸、一段さがって屋敷跡と考えられる郭、更に一の木戸があったと伝えられる削平地に達する。また、二の木戸を南に下ると、今岡氏屋敷跡と伝えられる削平地があるが崩壊が甚だしい。 遺跡に関する伝承等 城は、島の中央にあり、海賊城ではなく、もとは長崎城・青木城・余崎城などの見張り連絡の場所であったが、のち因島村上氏が小規模ながら戦国大名の性格をもつと、本城の役割をはたすようになったのだろう。 城主は村上水軍第一家老1430貫を領した、救井太郎左衛門尉源義親であったと伝えている。
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青木城址
広島県 福山・尾道
- 史跡
因島村上氏最後の拠点で、永禄10年(1567)に村上新蔵人吉充が向島立花の余崎城から移ったとされている。重井湾を臨む孤丘上の水域で、のちには村上氏が小早川氏の旗下となり、関ケ原合戦後は毛利に従って防長に移り、城は廃されている。
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長崎城址
広島県 福山・尾道
- 史跡
因島の南部、伊予に属す生名島・弓削島を指呼の間にのぞむ位置にあり、かつては一小島で、本丸と思われる跡は、現在宿泊所ナティーク城山として利用され、旧状をとどめていない。 その本丸から南西に3段の郭が船隠しにつながっている。城の周囲は工場の拡張と街区の拡張で、関連の遺跡はほとんど失われ、城の南西に船隠しがあって船を繁留するための岩をうがった杭穴が数年前まであったが、今は造船所の拡張によってコンクリートで埋められ、2・3個しか確認できない。 今岡通任は小早川氏と対抗しながら北上し、因島を横領していたが、天授三年長慶天皇の命をうけた村上師清が信州更級郷から下向、今岡通任に服従を要請したが、通任は聞き入れず、鶴島箱崎浦の合戦となり師清は勝利をおさめ南朝方の勢力をとりもどした。師清は、又三郎吉豊を因島本主家を継承させ、土生の長崎山を居城とした。 以来百八十年間因島村上水軍の本城であった。 なお、城の東方の天狗山の尾根先端部にある荒神山城とは、100mをへだて相対しており、この城は長崎城の控えの城と言われている。
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王子塚
広島県 福山・尾道
- 史跡
皇子宮とも呼ばれる町の氏神五柱神社の社務所北側に急流か荒波で丸くなった大小の礫 を円形に積み上げた積石塚古墳がある。 今から千六百年ばかり前、五世紀初頭の古墳で、因島古代研究の第一人者、故中島忠由先生は、「当時高貴の方が唐からの帰国途中に亡くなられ、玄海の荒磯の石を集めて泊地船所であったこの場所へ埋葬されたものと考えられる。」と説明なさっていた。 造礁サンゴの礫もあるので有力説。皇子宮がこの丘に祠られたのも、この古墳の被葬者の高貴な身分に由来するかとも考えられる。
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姫谷焼窯跡
広島県 福山・尾道
- 史跡
日本の初期色絵磁器を焼いた陶磁器焼成窯跡である。付近にある墓標は、陶工市右衛門のものと伝えられている。
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