ファン・ゴッホと日本をテーマに世界中から選びぬかれた逸品が一堂に会する「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」が、2017年8月26日(土)~2018年3月4日(日)の期間、札幌、東京、京都の3都市を巡回して開催されます。オランダのファン・ゴッホ美術館やクレラー=ミュラー美術館をはじめとした世界の名だたる美術館、そして個人のコレクションが集結し、日本美術がファン・ゴッホに与えた影響をさまざまな角度から見ることができます。
ファン・ゴッホと日本・本展の構成
1853年オランダに生まれたフィンセント・ファン・ゴッホは、1886年にパリに移り、自らの絵画表現を模索しました。そこで彼に大きな影響を与えたのが、日本の浮世絵でした。浮世絵版画を収集し、油彩で模写をして、構図や色彩を学んだのです。
さらにファン・ゴッホは、浮世絵をはじめとする美術作品、日本を紹介した文章を咀嚼しながら、独自の日本イメージを醸成していきます。彼にとって日本は創意の源であり、夢に見た理想郷でした。
本展の第1部は「ファン・ゴッホのジャポニスム」と題し、ファン・ゴッホが日本からどんな影響を受け、どんなイメージを抱いていたのかを多角的に検証します。
そして「日本人のファン・ゴッホ巡礼」と題した第2部では、最初期における日本人のファン・ゴッホ巡礼を、ガシェ家の芳名録に基づいたおよそ80点の資料からたどります。
日本初!ファン・ゴッホ美術館との本格的国際共同プロジェクト
ファン・ゴッホの展覧会は日本で数多く開催されていますが、本展はオランダのファン・ゴッホ美術館との初の国際共同プロジェクトで、日本展終了後はファン・ゴッホ美術館でも開催されることになっています。
「ゴッホと日本」をコンセプトに、本展の企画が立ちあがったのは6年前のこと。その後、2013年から共同企画として、ファン・ゴッホ美術館と日本の監修者・学芸員が作品選定や出品交渉を行ってきました。そうして出品される作品の中には、個人所蔵で普段はまったく見ることができない作品、日本初公開の作品も多く含まれています。
ファン・ゴッホを生んだオランダと、ファン・ゴッホに大きな影響を与えた日本。この両国で本展が開催される意義は、とても大きなものになること間違いなしです!
第1部 ファン・ゴッホのジャポニスム
パリー夢のはじまり
ファン・ゴッホの生年は、日本では黒船来航の年にあたります。オランダは鎖国中の日本とも交易をおこなっていましたし、ファン・ゴッホの伯父ヤンは日本に滞在した経験もありましたが、オランダ時代のファン・ゴッホと日本との接点をうかがわせるものは、何も見つかっていません。ファン・ゴッホが日本に関心を抱くようになったのは、1886年にパリに移住したのちだと言われています。
パリに移ったファン・ゴッホは、画商ビングの店で大量の浮世絵を見て、鮮やかな色彩、作品の質の高さに魅せられます。平坦で鮮やかな色面を使ったファン・ゴッホの画風は、浮世絵の研究を通じて培われていったのでした。
1880年代、パリはジャポニスムの最盛期でした。1886年に刊行された『パリ・イリュストレ』誌の日本特集号に使われた英泉の花魁図を、ファン・ゴッホは拡大模写して《花魁》に描きこんでいます。
この頃から、ファン・ゴッホは日本と日本人を理想化しはじめていたようです。そして、浮世絵の中の鮮やかな色彩世界を求めて「フランスにおける日本」たる南仏へ旅立つのでした。
アルルー「日本」という名のユートピア
1888年2月、ファン・ゴッホの南仏暮らしは大雪の中で始まりました。ファン・ゴッホがしたためた手紙には、「まるでもう日本の画家たちが描いた冬景色のようだった」、「この土地が、空気の透明さと明るい色彩効果のために、ぼくには日本のように美しく見える」と記されています。
ファン・ゴッホにとって、南仏は「まさに日本そのもの」でした。「ここではもう浮世絵は必要ない。目の前にあるものを描きさえすればいい」と語るほど。
夏に向かって日差しが強く明るくなるにつれ、ファン・ゴッホの絵も浮世絵のように鮮やかな色で描かれるようになります。浮世絵風の大胆な構図を取り入れるなどしたほか、ピエール・ロティの『お菊さん』を読み、日本を、そして日本人を理想化していきました。
理想化された日本人は、まるで花のように自然の中に生き、深い思想と真の宗教を持ち、他人と兄弟のように生活する貧しく素朴な人々でした。つまりファン・ゴッホは、自分が持っていた芸術的、社会的、宗教的理想を、日本人に投影していったのです。
そんな理想を実現すべく、ゴーギャンと「黄色い家」ではじめた共同生活は、1888年12月、有名な「耳切り事件」によって破綻します。日本を夢見た、南仏での1年足らずの生活期間は、ファン・ゴッホがもっとも想像力に満ち、もっとも幸福な時期だったのでしょう。
サン・レミ、オーヴェールー遠ざかる日本の夢
「耳切り事件」のあともたびたび精神病の発作に襲われたファン・ゴッホが日本について語ることは、ほとんどなくなりました。しかし、発作の合間に描きつづけた作品のなかには、浮世絵の影響を感じさせるものもありました。
1890年、サン・レミの療養所を出たファン・ゴッホは、パリで「現実」と直面します。そのひとつは弟テオが家庭を持ったこと、もうひとつは日本のイメージの急激な変化でした。
1890年の近代化が進んだ日本は、もはや「楽園」ではなく、現実として見られるようになっていました。多くの人が「日本の夢」から目覚めさせられることになったのです。
1890年7月28日、ファン・ゴッホの「日本の夢」に火をつけた画商ビングが大浮世絵展の功績を認められてレジオン・ドヌール勲章を授与されたその日、ファン・ゴッホはオーヴェールの屋根裏部屋で腹に銃弾を抱えたまま、瀕死で床に横たわっていました。そして翌29日、静かにこの世を去ったのでした。
第2部 日本人のファン・ゴッホ巡礼
オーヴェール巡礼の旅
ファン・ゴッホはオーヴェールの墓地に、あとを追うように没した弟テオと、隣りあって埋葬されています。
ファン・ゴッホの死からまもない頃、その作品や生涯を熱心に紹介したのが、小説家の武者小路実篤、画家の斎藤與里や岸田劉生、美術史家の児島喜久雄といった「白樺派」及びその周辺の文学者や美術家たちでした。その熱狂は徐々に広がり、大正から昭和初期にかけて、少なからぬ日本人がオーヴェールの地におもむきました。
生前ほとんど売れなかったファン・ゴッホの作品の多くは、オーヴェールのガシェ医師の元に残され、医師亡きあとは同名の息子が大切に守っていました。当時パリで見ることができるファン・ゴッホ作品はわずかだったため、日本人たちはオーヴェールをファン・ゴッホ巡礼の地と定めることになりました。
ガシェ家には、そんな日本人たちの名が記された芳名録が3冊残されました。現在はギメ東洋美術館に収蔵されている芳名録ですが、今回日本ではじめて公開され、近代日本の知識人たちによるオーヴェール巡礼の実相が紹介されることになりました。
オーヴェールに詣でた洋画家には、佐伯祐三や前田寛治などがいました。ファン・ゴッホの強烈な色彩表現は、若い日本人画家たちに大きな影響を与えたのです。
本展では、佐伯の《オーヴェールの教会》や前田の《ゴッホの墓》など、巡礼から生まれた日本近代絵画の名作のほか、写真や手紙などの豊富な資料も紹介されます。
クレラー=ミュラー・コレクションへの巡礼
ファン・ゴッホに傾倒した白樺派は文学者が中心で、作品以上にその悲劇的な生涯への関心が強かったことが、日本でのファン・ゴッホ受容に見られる特質となっています。ガシェ家の芳名録では、歌人斎藤茂吉の署名がその象徴的な存在といえます。
精神科医でもあった茂吉は医学研究のために欧州に留学し、西洋美術、とりわけファン・ゴッホへの関心を深めていきました。茂吉は、オーヴェールでファン・ゴッホを歌に詠んでいます。
一向に澄みとほりたる/たましひの/ゴオホが寝たる/床を見にけり(斎藤茂吉)
オーヴェールに先だって茂吉が訪ねたのは、オランダ・ハーグのクレラー=ミュラー家でした。そのクレラー=ミュラー家の芳名録にも、画家の荻須高徳や佐分眞ら日本人の名前が散見され、オーヴェールと並ぶファン・ゴッホ巡礼地となっていたことがわかります。クレラー=ミュラー家の芳名録や当時の展示風景写真、目録などの貴重な資料も、本展で紹介されます。
日本の浮世絵がファン・ゴッホを突き動かし、ファン・ゴッホの作品が日本の近代美術や文学に大きな影響を及ぼしたことを考えると、ファン・ゴッホと日本の縁がいかに深いものかがわかりますね。現代でもとりわけ日本人に愛されるファン・ゴッホの軌跡を、日本との結びつきという切り口で見つめる本展。日本とオランダを巡回することからも、いかに力が入った企画かが伝わってきます!
【展覧会詳細】
名称:ゴッホ展 巡りゆく日本の夢
■札幌展
会場:北海道立近代美術館
所在地:札幌市中央区北1条17丁目
会期:2017年8月26日(土)~10月15日(日)
休館日:月曜日(9/18、10/9は開館。翌火曜日休館)
■東京展
会場:東京都美術館
所在地:台東区上野公園8-36
会期:2017年10月24日(火)~2018年1月8日(月・祝)
休室日:月曜日(1/8は開館)、年末年始(12/31、1/1)
■京都展
会場:京都国立近代美術館
所在地:京都市左京区岡崎円勝寺町26-1
会期:2018年1月20日(土)~3月4日(日)
休館日:月曜日(2/12は開館。翌火曜日休館)
公式サイト:http://gogh-japan.jp/
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