古くから日本の象徴として鎮座してきた富士山。平成25年にはユネスコによって世界文化遺産に登録され、国内外の観光客からより注目を集めています、そんな富士山が世界文化遺産に登録された背景を語る上で、噴火と遥拝は欠かすことのできないもの。今回は、「信仰の対象と芸術の源泉」として、”文化”遺産に登録された富士山の歴史的背景とそれにまつわるスポットをご紹介します。
富士山の噴火と遥拝(ようはい)、浅間神社の建立
富士山噴火の歴史
富士山が世界文化遺産に登録された背景を語る上で欠かせないのが、富士山の噴火活動とそれにまつわる富士山信仰です。
富士山には、古くから十数回噴火を繰り返してきたという記録が残っています。その中でも特に鮮明な記録として残っているのが、800年(延暦19年)3月14日から4月18日までにかけて発生した大噴火と、その2年後にあたる802年(延暦21年)に発生した噴火「延暦大噴火」、864年(貞観6年)から866年(貞観8年)にかけて発生した大噴火「貞観大噴火」、そして富士山の歴史上最後の噴火とされている、1707年(宝永4年)の宝永大噴火です。
これらの噴火は富士山三大噴火と呼ばれています。
浅間神社の建立と遥拝の歴史
延暦大噴火や貞観大噴火を経験した当時の人々は、度重なる噴火は「浅間大神(あさまのおおかみ)」の怒りであると考えました。
そこで富士山の見える場所に「遥拝所」を設け、そこから山頂を仰ぎ、「浅間大神」へ祈りを捧げるようになったといわれています。
この信仰を「遥拝」と呼び、遥拝所として設けられた場所が現在の「山宮浅間神社」や「北口本宮冨士浅間神社」です。
これが浅間神社の始まりとされています。その後、「富士山本宮浅間大社」や「河口浅間神社」、「冨士御室浅間神社」など、数多くの浅間神社が建立されました。
その後、「あさま」という呼び名が「せんげん」にかわり、現在の「浅間神社(せんげんじんじゃ)」という呼び名が一般的になっていったのです。
そして、現在「浅間」を社名とする神社は約1,300社にものぼります。
また遥拝が始まった平安時代初期には、富士山への入山が禁忌とされていて、山中へ足を踏み入れる人はいませんでした。人々が富士山に登るようになったのは、平安時代末期頃からだといわれています。
浅間神社発祥の地「山宮浅間神社」
現在、浅間を社名とする神社は約1,300社。その起源となった神社がここ、「山宮浅間神社」です。こちらの山宮浅間神社は、古くはヤマトタケルノミコトの時代から存在していたともされています。
参道には灯籠がずらりと並び、厳かな空気が流れます。
灯籠が並ぶ参道を進むと、「籠屋」と呼ばれる建物が現れます。こちらの建物は昭和8年に建てられたもので、山宮浅間神社で祭儀が執り行われる際に神職や社僧が籠もって神仏にお祈りをした場所です。
籠屋の脇には、構成資産であることを案内する看板が設置されています。
籠屋を抜けると、通常の神社でいうところの本殿に位置する遥拝所へつづく参道が現れます。と、参道のまんなかに何やら岩が。これは一体何でしょうか…?
実はこの岩、鉾立石(ほこたていし)と呼ばれるもの。この鉾立石は、浅間の神が里宮と山宮を往来する神事「山宮御神幸」の際に使われるもの。
山宮御神幸では、神の宿った鉾を「木之行事」と呼ばれる方が左肩に載せ、途中肩を変えることなく富士山本宮浅間大社から山宮浅間神社までを歩きます。その際、神の宿る鉾を地面に置くことができないため、この石の上で鉾を休めます。
現存する鉾立石は、山宮浅間神社に2つ、富士山本宮浅間大社に1つの合計3つ。訪れた際は見つけてみてください。
山宮浅間神社の最大の特徴は、見ての通り社殿が設けられていないこと。通常の神社には本殿や拝殿といった社殿が設けられていますが、山宮浅間神社の遥拝所では、富士山を御神体として直接遥拝するため社殿が存在しません。
かつては社殿を建てようと何度か建設が試みられたそうですが、建設をするたびに大風が吹き建物が飛ばされてしまうため、社殿を建てるのを断念した…という伝説も残っています。
富士山本宮浅間大社
富士山本宮浅間大社は、全国に約1,300社存在する浅間神社の総本宮です。家庭円満、安産、子安、水徳の神などにご利益があるとされており、火難消除、安産、航海、漁業、農業、機械など、幅広い分野の守護神としても知られています。
また意外と知られていませんが、富士山の8合目から山頂までは、静岡県でも山梨県でもなく、ここ富士山本宮浅間大社の所有物なんです。これは徳川家康が定めたものとされています。そのため、富士山頂上には富士山本宮浅間大社の奥宮が鎮座しています。この奥宮の鎮座は明治初期以降で、それまでは大日堂が鎮座していました。
こちらは武田信玄の像。武田信玄・勝頼親子は、富士山本宮浅間大社を厚く崇敬していました。そのため富士山本宮浅間大社に対し、神領の寄進や社殿の修造などを行ったとされています。
境内の社殿前の枝垂れ桜は、1569年(永禄12年)に武田信玄が植えたもの。ただし現在の枝垂れ桜は2代目で、信玄が植えた枝垂れ桜は昭和44年に樹齢400年で惜しくも枯れてしまいました。
こちらが初代信玄桜の舎利木(しゃりぼく)。現在は社務所の入り口に飾られています。
また枝垂れ桜以外にも、富士山本宮浅間大社は桜の名所でもあります。境内に咲き乱れるのは、ソメイヨシノを中心に、ヒガンサクラ、フジサクラ、枝垂れ桜など。シーズンになると境内の桜はライトアップされ、幻想的かつ壮麗な姿を見せてくれます。
富士山本宮浅間大社の社殿は、徳川家康が造営したもの。写真に見えているのは、拝殿です。屋根は檜皮葺、外側と内側丹塗となっており、壮麗な姿が特徴的。
こちらに見えているのは本殿。通常神社の本殿は屋内にあることが多いのですが、富士山本宮浅間大社の本殿の構造は二重の楼閣造で、「浅間造」と呼ばれています。
また境内では、富士山の火山弾と南極の石、2つの珍しい石が見られます。
なぜ南極の石が富士山本宮浅間大社にあるのか?実は富士山本宮浅間大社は、航海・漁業の守護神としても有名なのです。そのため、歴代の南極観測船「宗谷」や「ふじ」、「しらせ」には、富士山本宮浅間大社の祈祷を受けた神棚が設けられていました。この石は第七次南極観測船「ふじ」の乗組員で、富士宮市出身の赤池稔によって持ち帰られ、奉納されたものです。
そしてこちらが火山弾。重さは約100kgもあります。この火山弾は、富士山噴火の際に、地中の岩漿(がんしょう)が、火熱で溶けて空中に吹き上げられ、落下時に酸化して冷却したもの。このような整った形をしていて大きいものは珍しいのだとか。
境内の奥には目をみはるほどに透き通った水が特徴的な池「湧玉池」があります。池の水は全て富士山からの伏流水。湧出量は毎日30tともいわれ、水温は年間を通じて13℃前後に保たれています。この湧玉池は、かつて富士道者たちが水垢離を行っていた場所です。
池の横には富士山の湧き水が流れ出る水汲み場があります。こちらの水は非常に水質の高い水ではありますが、飲用前に一度煮沸をする必要があります。そのため、容器を持参すれば水を持ち帰ることができます。容器を持参していない方は、神社前に容器が用意されていますので、初穂料200円を賽銭箱に入れてから利用しましょう。
境内から少し離れた場所には富士見石と呼ばれる石が。一見なんの変哲もない石に見えますが、この石は本能寺の変の約2ヶ月前、織田信長が腰を掛けて富士山を眺めた石とされているもの。
さらに周辺には「長屋門歴史の館」があり、館内では富士宮市の歴史や世界文化遺産富士山について、パネル展示等が行われています。またガイドも常駐しており、富士山の世界文化遺産としての側面や富士宮市の歴史について解説してくれます。
また富士山本宮浅間大社の正面には、お宮横丁と呼ばれるグルメスポットも。
お宮横丁には富士宮の人気ご当地グルメ富士宮やきそばをはじめ、
地元静岡の銘品がずらりと並ぶお土産屋
静岡おでんのお店などが軒を連ねており、富士宮グルメを思いっきり堪能できます。
フードコートには雨の日でも安心なパラソル付き。中央には富士山の湧き水がのめるスペースも用意されています。
また2017年12月23日には、すぐ近くに「富士山世界遺産センター」がオープンする予定。こちらの施設では、体験や展示を通して富士山の歴史やそれにまつわる文化などが学べるようになります。
今回めぐったスポットを含むモデルコースはこちら!
自然と富士山の偉大なる力を体感できる「噴火と遥拝」コース。有名な構成資産をめぐりつつ、パワースポット・自然・キレイ(水)・参拝・ニュースポットなどもめぐる、女性におすすめの欲張りコースです。
各地
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山宮浅間神社(社殿を持たない神社・遥拝所・鉾立石)
※古代の噴火の溶岩流跡の末端、神が降臨するとされる「依代」に建つ神社
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白糸の滝(名水百選・富士講の祖:長谷川角行修行の地)
※雄大な富士山の雪解け水が流れ落ちる、いにしえの修験者の修行の地
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富士山本宮浅間大社(全国1300余りの浅間神社の総本山・湧玉池・鉾立石)…
※古代の噴火を鎮めたとされる神社と、その溶岩の間から湧く、美しい湧き水の池
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(富士山世界遺産センター)(仮称)※12月開館予定
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お宮横丁
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各地
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