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新島が育んできた歴史を知ろう!新島の史跡

本島からは160kmも離れた新島ですが、古くから人々が暮らし、離島ならではの歴史を築いてきました。かつて流刑地としても機能していた新島には、当時の刑場跡や流人墓地なども点在しています。また、この新島で人々生活の発展に貢献してきた人々がいたのも事実。彼らの眠る墓もまた、新島の歴史を語らう上で忘れる事のできない物でしょう。ここでは、新島の歴史が垣間見れる新島の史跡についてご紹介していきます。

天宥法印の墓

「新島流人」と言われている「天宥法印」の眠る墓です。天宥法印は、宗教上の理由などから領主と争い、その結果罪に問われて出羽国羽黒山から新島へ流刑となりました。彼は当時75歳となかなかの高齢でしたが、この新島の地で島民に読み、書き、そろばん、農業などを教え、人々に大変慕われてたと伝えられています。また、天宥法印は新島で最初の流人としても有名です。

向畑刑場跡

「向畑刑場跡」は、かつて新島に流されてきた罪人の処刑が執り行われていた刑場です。島には「新島流人帳」が残されており、それによると1668年から1871年までの期間に新島へ流されてきた罪人の数は約1,333人にもおよびます。さらに、島に来てからも殺人や放火などの重罪を起こす者がいたそうです。その重罪人は11人にも及び、彼らが処刑されたのがこの「向畑刑場跡」です。また、刑場のすぐとなりには流人達を閉じ込めていた流人牢屋跡も見られます。

相馬主計の碑

かの新選組の最後の隊長となった「相馬主計」。彼は坂本龍馬殺害の関係者として明治3年に「流刑終身」とされ、この新島へ流されました。新島へ流された後の相馬は島の娘と結婚し、後に寺子屋を開き村の子供たちに勉強を教えるなどし、島民の師として多くの人びとに慕われていました。相馬の流刑後しばらくして、流刑制度が廃止になったことから相馬は赦免となり、妻とともに本島へ戻ります。その際に、相馬がうたったとされる和歌が、この石碑に刻まれているのです。

流人墓地

画像提供:新島観光協会

新島に流された流人たちが眠る墓地です。共同墓地の一角にあり、それぞれ生前に好きだったものがかたどられた墓石になっています。そのため、酒樽やサイコロなど、珍しい形をした墓石が見られるスポットです。これらは全部で118基収められています。また、流人墓地には白砂が敷き詰められていて、そこに立ち並ぶ墓石はどこか神秘的で美しさすら感じさせます。新島の歴史を知る上で、見ておきたいスポットのひとつです。

上木甚平衛(飛騨爺)の墓

飛騨高山の名手「上木甚平衛(飛騨爺)」が眠る墓です。上木甚平衛は農民一揆の首謀者として捕まり、そのまま流罪になりました。62歳で新島へ流れてきた後、85歳で亡くなるまでの間、田畑を手伝い、読み書きやそろばんなどを島民に教え、島の生活に貢献したとされています。島民から慕われていた彼の死後、現在の場所にこの墓が建てられました。

上平主税の歌碑

上平主税は、大和十津川の郷士である参議・横井小楠を暗殺した罪に問われ新島へ流されました。明治3年のことです。学識が深く医術にも長けていた上平は、種痘の実施を訴えたり、寺子屋を開いたりして島の発展に大きく貢献した人物です。その後、上平は島を離れることになりますが、その際に島で亡くなった流人たちの供養塔を建て、その裏に歌を遺したとされています。

なぞの榎(えのき)

かつて、新島に流れ着いた流人・清右衛門が罪に問われて処刑される間際、自分の無実を叫び、その証に法燈塚に榎をはやすと訴えながら亡くなりました。清右衛門の死後まもなくして、本当に法燈塚に榎が生えたことから、村人たちは清右衛門の霊を慰めるべく墓石を建てたと言われています。それが、この「なぞの榎(えのき)」にまつわる逸話です。

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