『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』など、世界中で愛される作品を生み出した浮世絵師・葛飾北斎。「すみだ北斎美術館」は、北斎の生誕の地であり、生涯を通して暮らした墨田区に開館した美術館です。数え歳90歳で世を去るまで理想の絵を追い続けた北斎の生き様や画風の変化など、すみだ北斎美術館の常設展の見どころレポートします。
すみだ北斎美術館の展示は、通年鑑賞ができる常設展エリアと、年に数回開催される企画展示エリアに分けられます。まずは美術館の4階にあり、7つの時代で北斎の足跡をたどる常設展示室「AURORA(オーロラ)」をご紹介します。
1.すみだと北斎
常設展示室の入り口は「すみだと北斎」をテーマとしたホールのような空間。北斎が86歳の時に描いた、『須佐之男命厄神退治之図(すさのおのみことやくじんたいじのず)』の推定復元図が出迎えてくれます。幅約2.7mという巨大な絵馬を復元したもので、実物は美術館から2kmほど離れた隅田川沿いの牛島神社に奉納されたもの。
実物は関東大震災(1923年)で消失してしまいましたが、明治時代の雑誌に掲載された1枚のモノクロ写真を頼りに、デジタル解析技術や北斎の色使いなどの研究成果を融合。最新鋭のプリント技術と職人の手技で色鮮やかに蘇りました。
牛島神社の祭神の須佐之男命が、今後は悪事を働かないと疫病神に約束させる場面が描かれています。悪を許し、共に生きようとする姿勢に北斎の人柄が現れているようです。
『須佐之男命厄神退治之図』の脇にあるタッチパネルでは、周辺にある北斎ゆかりの地などの情報にアクセス可能。壁面のプロジェクション画面と合わせて、インタラクティブに楽しむことができます。絵の題材になった名所は徒歩で行ける近場にもあるので、鑑賞後に訪れるのもおすすめです。
2.習作の時代
北斎19歳から35歳(1778~1794年)ごろの足跡を紹介するエリア。6歳から絵を描き始め、十代なかばには浮世絵の版木彫りの仕事をしていた北斎。その後、役者絵の大家・勝川春章に弟子入りし、翌年に「勝川春朗(かつかわしゅんろう)」の画号で浮世絵師としての活動を始めたといいます。
鮮やかな色彩と武士の躍動感が目を引くのは『忠臣蔵討入(ちゅうしんぐらうちいり)』。1781年から89年ごろの作品で、美術館の近くで実際に起きた、赤穂浪士による吉良邸討入事件を題材にしたもの。(展示は実物大高精細レプリカ)
勝川派の様式で役者絵や、黄表紙(きびょうし)と呼ばれる絵本の挿絵も多く描きましたが、武者絵や相撲画など、幅広い分野の題材を描いていたのもこの時期。タッチパネルでは作品の詳細のほか、当時のエピソードなどを閲覧することができます。
3.宗理様式の時代
勝川派で浮世絵デビューを果たした北斎は1794年、江戸琳派(えどりんぱ)の代表として「宗理」と名乗るようになります。江戸琳派とは、俵屋宗達や尾形光琳が京都で興した「琳派」に影響を受けた絵師のグループで、優美で写実的な画風で知られています。
北斎が四十代半ばに描いた『賀奈川沖本杢之図(かながわおきほんもくのず)』(実物大高精細レプリカ)は、洋風版画の表現法を取り入れた作品。波のモチーフは、20数年後に生まれる傑作『神奈川沖浪裏』へと進化することになります。北斎は、宗達や光琳とは違った様式を完成させた後、1798年には江戸琳派から独立。「北斎辰政」を名乗り、以後どの流派にも属さないと宣言します。
4.読本挿絵の時代
40代半ばを過ぎた北斎は、読本(よみほん)挿絵を精力的に描きます。読本とは現代の小説のような書籍で、文の間に挿入される絵も読者の楽しみでした。当時の読本挿絵は平面的で単調な画風が主流でしたが、展示からは北斎が墨の濃淡を駆使して空間を奥行まで表現したことがわかります。
時には奇抜すぎる構図や、文章にない場面まで描いてしまい、作者や読者を困惑させた北斎ですが、読本挿絵の芸術性を大きく進化させたことは間違いありません。読本は当時大変高価だったため、江戸の庶民は貸本屋に見料を払って楽しんでいたのだとか。「葛飾北斎」と名乗るようになったのもこの時代のことだそうです。(写真上は『新板 飛驒匠物語』の実物大高精細レプリカ)
5.絵手本の時代
50歳を過ぎたころの北斎には、彼から絵を学ぼうとする多くの門人がいました。日本全国にいる弟子に直接指導するのは難しいため、自習用参考書である絵手本の制作に打ち込みます。これらの絵手本の一部が「ホクサイ・スケッチ」と呼ばれる、世界中で多くの芸術家に影響を与えた『北斎漫画』です。
「とりとめもなく気の向くまま描いた」と北斎がいう絵手本は、人間の身体の動きや表情だけでなく、工芸品の図案や着物の模様までもが収録されています。『北斎漫画』は各地の門人はもちろん、町民や武士といった階級を超え、江戸時代のベストセラー本に。刊行は1編のみの予定でしたが、あまりの反響の大きさに北斎没後も15編まで作られました。(写真上は『北斎漫画』の実物大高精細レプリカ)
なかには神社仏閣などを空から見下ろす構図の絵まであり、どうやって描いたのか不思議になるほど。このコーナーでは、手のひらサイズの『北斎漫画』を間近に見ることができます。(写真上は『諸職新雛形』の実物大高精細レプリカ)
6.錦絵の時代
『冨嶽三十六景』や『諸国瀧廻り』など、世界的に有名な傑作錦絵を世に出した、北斎が70歳を過ぎてからの画風を紹介するコーナー。
それまでの浮世絵は、歌舞伎役者など人物を描いた作品が多く、風景画はマイナーな存在でした。北斎がさまざまな富士山の姿を描き、1833年ごろに完結させた『冨嶽三十六景』が大流行することで、風景画が浮世絵のひとつのジャンルとして確立されたことがわかります。(写真上は『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』の実物大高精細レプリカ)
浮世絵は空気や光で劣化しやすいため、常設室には主に実物大の高精細レプリカ(複製)が展示されています。複製とはいえ、言われなければ本物と区別がつかないほどの色彩や質感です。これは最先端の印刷技術やインクが可能にした現代技術の結晶で、画材にこだわった北斎が見たら大いに喜んだのではないでしょうか。
7.肉筆画の時代
75歳を過ぎ「百数十歳まで努力すれば生きているような絵が描ける」と『富嶽百景』に記した北斎。「画狂老人」や「卍(まんじ)」と名乗り、版木で刷る浮世絵から、絵の具を使った肉筆画により情熱を傾けた時代を紹介するエリアです
80歳を過ぎて北斎は、これまでの風俗的なモチーフから、伝統的な花鳥や古典などに題材を求めるようになります。また、若い浮世絵師に伝えるため、独自の技法を自ら解説した絵本を熱心に刊行したのもこのころ。描くことへの情熱は衰えることはありませんでしたが、「あと五年生きることができれば真の絵描きになれるのに」と願いつつも、1849年の春に90歳の生涯を閉じました。
錦絵の摺りの工程をまるごと紹介
浮世絵とは、木版画や肉筆画で描かれた“当世風(当時の流行)”の絵のことで、特に多数の色を重ね摺りした木版画を「錦絵」といいます。その錦絵を印刷する“摺り”の工程を解説するコーナーも見応えたっぷりです。
ここでは『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』を例に、複数の版木で色を重ねる工程を解説。一色につきひとつの版木が必要ですが、版木を節約するため、裏面にも版が彫られている様子も紹介しています。
錦絵は分業制で、図案を描く絵師、彫師、摺師の協業で制作されます。若いころ彫師だったためか北斎は特に彫りにこだわり、『富嶽百景』の彫師に名人・江川留吉を指名したそうです。この展示では現代の摺師により再現された、緻密な波しぶきの一粒一粒をじっくり鑑賞することができます。
すみだ北斎美術館の入館料・営業時間・行き方・割引クーポンは?
<取材・構成・文=杉山元洋、撮影=恩田拓治、一部写真提供=すみだ北斎美術館(撮影=尾鷲陽介)>
*展示作品は全てすみだ北斎美術館蔵
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