楢山佐渡の墓

岩手県 盛岡
  • 観光名所

基本情報

名称

楢山佐渡の墓


ナラヤマサドノハカ

住所

〒020-0061 岩手県盛岡市北山二丁目12-15


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アクセス方法 ・盛岡駅からバスで15分 ・一高前下車から徒歩で25分 ・盛岡駅からバスで10分 平日のみ運行 ・県立中央病院前下車から徒歩で15分 ・盛岡駅からタクシーで10分
連絡先 所在地 電話番号:019-661-3642 問合せ先 電話番号:019-661-3642

楢山佐渡(ならやまさど)(本名隆至(たかし)、もしくは隆吉)は楢山帯刀(たてわき)(隆冀(たかくに))の長男として生まれた。楢山家は南部一門として代々家老を勤めた家柄で、佐渡も弱冠23歳にして家老職に就き、後には主席家老として藩政の改革に奔走した。佐渡は疲弊した藩財政と相次ぐ一揆をおさめるために働き、そんな佐渡を藩主利剛(としひさ)も厚く信頼した。 1868(慶応4)年2月、旧幕府側と薩長側に揺れる藩の行く末を決めるべく、佐渡は主席家老として京都へ赴く。しかしそこで佐渡が見たものは、権勢を得て横暴な態度をとる薩長の武士の姿だった。そのため佐渡は、薩長の標的とされた会津藩と庄内藩への穏便な処置を望んだ奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)への参加を決意する。 奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)に従った盛岡藩は、同盟を脱退した秋田藩を攻めるも官軍の援助を得た秋田勢に敗れ、同年9月に降伏謝罪の手続をする。主席家老として佐渡はその戦争の責任を一身に受ける形となり、翌年の1869(明治2)年6月23日、故郷盛岡にて切腹の形をもって処刑された。