般若寺跡

栃木県 馬頭・茂木・益子・真岡
  • 史跡

基本情報

名称

般若寺跡


ハンニャジアト

住所

〒321-3305 栃木県芳賀郡芳賀町芳志戸2443-1


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アクセス方法 ・北関東自動車道上三川インターから車で40分
連絡先 問合せ先 電話番号:028-677-1115

種姫様と般若寺の供養塔 8代将軍吉宗には、家重・宗武・宗尹(むねのぶ)の3人の男子があった。のちに家重は九代将軍になり、宗武は徳川左衛門督宗武と称し、徳川御三卿(さんきょう)の一つ田安家を名乗り、宗尹はやはり三卿の一つ一橋家を名乗った。 種姫は、徳川左衛門督宗武の娘として明和2年(1765年)、田安家の館で生まれ安永4年(1775年)12月に10代将軍家治の養女となった。天明2年(1782年)に10代目紀伊藩主徳川治宝(はるとみ)と婚約が成立し、同3年に結納を交わした。 ところが養父である将軍家治が天明6年(1786年)7月病床に伏し、1カ月ほどのちなくなってしまった。 家治が病床にあり、自分の命が幾ばくもないことを知り、種姫を呼んで遺言で申すことには、「野州般若寺の僧恵乗に頼んで先祖の供養をしてもらっている。私の没後は、おまえが私に代わって国家安寧、子孫繁栄のため、また有徳院殿(祖父吉宗)、惇信院(父家重)と親族の菩提をともらうため、寺院を建立し宝塔を建立してもらいたい」とのこと。 このため種姫は自ら紺紙に金泥で宝きょう尊勝無量寿等之陀羅尼を数巻書写し、官女らの写経なども合わせ、将軍の爪髪などすべて塔内に奉納して菩提を祈った。 般若寺は、明治時代に焼失し、現在跡地には供養塔と般若寺の歴代僧の墓碑が残っている。供養塔は昭和55年1月10日、栃木県有形文化財に指定されている。